京都に行くと思うこと

京都は東京をうらやましく思っていない。 京都に行くたびに思うことだ。

おおかたの地方都市やそこに住む人は、少なからず東京に憧れや羨望を抱いていると感じるし、 街並みにもその気持ちが反映されているけど、 京都だけは、まったく東京をうらやんでいない。それが京都に行くと感じることだ。

東京のはやりすたりを気にすることなく、京都は京都のフィルターで大事だと思うことを大事にして日々を暮らしている。

きれいに掃除された街並み、玄関先の菊の懸崖の鉢、花屋のディスプレイ、本屋の品ぞろえ、びっくりするほどおいしく美しい食事の数々。

その根底にあるのは、古いもの、古くからあるものや古い人を大事に誇りに思う気持ち、ではないかと思う。それは神社仏閣や伝統行事だけじゃない。

バスに乗っていると、席を譲られた年寄りは、席ぐらい譲ってもらって当然、という感じで座る。かっこいい。 たまたまだったのだろうか。でも東京であんなシーンは見たことがなかった。電車で席を譲ると「もう本当にすみません、私みたいなのが生きていて…」とでも言わんばかりにすまなそうな顔をする人が多かった。 東京の、新しいもの強いものが一番、という価値観がそういう場面であからさまになる。

でも、新しいもの強いものは、古いものから生まれたのに。 長く生きて働いて子を育て社会に貢献してきたのだから、本当に席ぐらい譲ってもらって当然なのだ。大事にしてもらって当然なのだ。 その当然を京都はそこここで表現しているように思う。

私は東京も京都と同じくらい好きだ。東京には東京のよさがある。 だけど自分の生まれた町はあんまり好きじゃない。 自分の生まれた町を好きになるためには、 東京や京都をうらやましく思わないためには、 「そこにあるもの」の価値を見出すことが必要なんだろう。